風が静かに騒いでいる。ひそひそと囁きかけるように、ルックの体を撫でていく。 言わなくてもわかっていると、流れる風を優しく受け流した。 そうして見据えた道の先からそいつはやってくる。 「らりほー。元気してるぅ?」 「き、気色悪い…」 きれいな月夜の晩だった。藍色の夜空に満天の星が煌いている。一度目を奪われれば容易に目を背けられないほどの幻想的な美しさ。 そんな情緒溢れる背景を背にした男は、まったく情緒のない挨拶をしでかしながら現れた。うさんくさい笑顔を顔面に貼り付け、こちらに向けた掌をひらひらと振ってみせる。その存在だけを視界から抹消できたらいいのにと、ルックは無駄なことを思った。相対する相手の眉間に刻まれた深い皺を見て、男は声を出して笑う。 「ひどい第一声だなぁ。久しぶりに会ったっていうのに」 「それはこちらのセリフだよ。なんなのその挨拶」 「最近巷の女の子に流行りの挨拶なんだけど、知らない?」 「知らない。興味ない。大体マネしてどうするのさ」 「気分が軽くなるよ。ルックもやってみれば?」 「やるわけないだろ」 バカじゃないのと心底見下げた視線を送っても、男の飄々とした態度は崩れなかった。 十数年ぶりの邂逅が嘘のようなこの気軽さはどうだろう。お互い数奇な運命を背負っているはずだというのに、この男を前にするとそれを強く自覚するか忘れてしまうかのどちらかだった。あまりにも極端だ。だが、こいつは自分を偽ることが大得意な人間だ。油断すればたやすく相手のペースに呑まれてしまう。頭の隅からの警告に、ルックは少し腹に力を入れなおした。 「それで、何の用?残念ながら客人の知らせは届いていないけど。………ティル」 会って初めて名を呼んだ。ティルの後ろで星が瞬く。 その僅かの間に、ティルがひどく優しく笑んだような気がした。 ルックの後ろでは魔術師の塔が高くそびえ黒々とした影を落としている。瞬くものは何もないのだろう。 「用があるのは君のほうじゃないのかい?」 先ほどの笑顔は錯覚に違いないと確信できるような含みのある笑顔がそこにあった。嫌な予感がする。どういう意味だと返す前に、ティルが行動に移った。すぐ脇のしげみに音をたてて分け入ったかと思うとまた取って返したようだ。茂みの中からだというのにまるで社交界の場のように取り繕ったティル。その手に引かれて、もう一人分の人影が姿を現した。随分と小さい。夜風にさらりとした金髪が揺れる。 そこにはルックが数時間前に寝かしつけたはずの少女の姿があった。 「はーい、迷子のお届けでーす!」 「ル、ルックさま…」 少女は随分と頼りない顔をしていた。あれは叱られることを覚悟したときの泣きそうな顔だ。何度見ても間違いなくセラだった。だがティルの悪趣味な冗談も否定しきれない。ルックは思わず塔に取って返してセラの不在を確認したい衝動にかられたが、この2人の前であからさまな動揺を見せたくなくてなんとか押し留まった。それよりも現実的な考え方をした方がよさそうだ。 どうしてティルがセラを連れている?まさか誘拐かいくらセラが目に入れても痛くないほど良くできたかわいい子だからってまさかこいつがそこまで見下げ果てた奴だったとはいや知ってたけど。 「こらこらこら、今なんか非常に失礼なこと考えてるだろう」 「まさか。事実だけだ」 2人の間に漂い始めた不穏な空気を察してか、セラが懸命に声を張った。 「ごめんなさい、ルックさま!」 「セラ?」 「わたしがいけなかったんです。寝る前に今日教えていただいた魔法の復習をしようと思って、なんどか練習していたら、まちがって飛ばされてしまって…」 「そうそ。それで僕の家の前で、見覚えのある幼女が半ベソかいてうろうろしているところを僕が保護したというわけなんだ。わかったかい?」 ティルがやたらと得意げなのは腹立だしいか、そんなことはどうでもいい。 ルックが今日セラに教えたものといえばテレポートの魔法だ。こっそりと練習しようとしたのだろう。まさかそれがこんな自体になるとはセラも予想していなかったに違いない。叱られることを考えても無理はなかったが、ルックはそれよりもセラの潜在能力に驚いた。魔術師の島からティルのいるグレッグミンスターまではかなりの距離だ。ルックですら実行に移したことはない。不可能ではないが、恐ろしいほど体力を奪われることが分かりきっていたからだ。それを間違いでとはいえ、習ったばかりのセラが可能にするとは、彼女の魔力はルックの想像以上だということになる。 ルックは不安そうに見上げてくるセラの頭を優しく撫でた。 「すごいじゃないか、セラ。ここからグレッグミンスターまで飛べるなんて、なかなかできることじゃない。よくできたね」 悲しみに歪んでいた幼い顔がルックの言葉で途端に綻んだ。 花が咲くような笑顔とはまさにこのことだ。 ルックは養い子の柔らかさに暖かい気持ちになりながらも、注意を促すことは忘れなかった。 「でもね、慣れない魔法は必ず僕かレックナートさまの前で練習するんだ。君に何かあってからでは遅すぎる」 「はい!」 元気なセラの声が返ってきたところで、ごほんごほんと存在を主張する咳が聞こえてくる。 「はいはーい。ルックくん。麗しい師弟愛ごっこはともかく僕に何か言うことは?」 「なに、君まだいたの。もう用はないんだけど」 「裁いてくれようかコノヤロウ」 「あ、あ、ティルさま!ご迷惑をおかけして申しわけありません。本当にありがとうございました」 「うんうん。セラは本当にいい子だね。誰かさんにも見習って欲しいものだねえ。なでなで」 「………何が目的なわけ?」 いい加減、必死に間を取り成そうとするセラがかわいそうに思えてきて、ルックはようやくティルに聞いた。するとティルは我が意を得たりと輝かんばかりの笑顔を浮かる。 これだから聞くのが嫌だったんだ。 「泊めてくれ」 「は?」 「できれば数日ここに滞在させてほしい」 「………」 「いやー、グレミオと喧嘩しちゃってね。プチ家出というやつさ。ここが一番隠れ場所にちょうどいいんだよ。後生です。お願い。もう竜騎士団の人も返しちゃったし」 最後の方だけ真顔になってティルは言った。付き合わされた竜騎士を哀れに思いながらも、深くは追求しないことにする。ただちらちらと窺うようなセラの視線が痛い。世話になったセラの身としては無下に扱うことのできる頼みではないのだろう。ルックとてそんなセラの思いを完全に無視することはできなかった。 「………わかった、好きにしなよ。レックナート様には僕から言っておく」 ルックの言葉の前に大きなため息が付いたのはご愛嬌だ。半ば押しかけのような状態だというのに、断れないこの状況。明らかにティルの方が上手なのだ。ため息もつきたくなる。 了承が出るとティルとセラの顔が同時に明るくなった。 「さすがルック、話がわかる。助かったよ」 「勘違いするな、セラのためだ。さあセラ、もう部屋に戻りなさい。いつもならとっくに寝ている時間だよ」 「はい、おやすみなさい」 さすがにあの距離を飛んで疲れが出たのだろう。安心したのか瞼がだいぶ重くなってきているのか、セラは何度も目を瞬かせていた。 ルックはセラを先に行かせ、まだ道に佇んだままのティルへと振り返る。 「ティル、君はこっちだよ。客室の準備ができるまで大人しく水でも飲んでろ」 空いている客室で比較的片付いている部屋はあっただろうか。面倒だからいっそ勝手場にでも泊まらせてやろうか。などと考えながら、ルックも塔の中へ入ろうとしたときだった。 「あ、今更だけどルック」 ティルの声と共にまた風が吹いた。外から内へ。 ひどく清んだ風だった。ティルと共にやってきたのだろう。 「髪を短くしたんだね。思いのほか似合ってるよ」 振り返ると月明かりの下でティルが笑っていた。 気のせいかもしれないと思った、先ほどのひどく優しい顔で。 ルックは自分の顔が強張ってないか今すぐ鏡の前で確かめたくなった。 どうにか返した声は揺れてはいないだろうか。 「君に、褒められてもね」 「素直じゃないなぁ」 するりと通り過ぎていく風は、始めにティルが現れたときと同じことを告げている。 わかっているよと、ルックは右手を緩く握り締めた。 冷えた指先が掌の熱を奪っていく。 |
ロスタイムの使い方 (101113)
byhazy