ほお、これはまた珍しい。近頃右手がやけに疼くと思うたら、妾が右手の同胞かえ。記憶違いでなければ、その棲み家も変わらぬようじゃの。お互い健勝そうで何より。因果なことじゃが。さ、このような山奥の廃墟に何用ぞ。少なくとも妾の方には如何なものにも用はないと思うておるが。いや待て、言わずとも良い。妾が当てて見せよう。長き緩慢な生に飽いたか。御しきれぬ力の呪縛から逃れたくなったか。それともこの右手の光を求めてか。ふふふ、今更だが、心当たりが多すぎてただ一つと決めがたいのう。だがどうでもよいことじゃ。俗世の瑣末事に妾を惑わせるでない。永き時をただただ緩慢に生きていくことは、眠りにつくことと変わらぬ。妾はそれでよい。共に魂の棲み家の行く末を見届けようぞ。それともおんしはまだ足掻くかえ。妾は道の先、遠い陽炎を見る。おんしは足元の草花を見るか。それがおんしの道か。ふむ、これだから尻の青い小童は手に負えん。嫌な目をしておるわ。いつか、その目が妾と同じものを映す日がほんに楽しみよ。
 おんしの知るように、月の子らはもうおらぬ。最後の一人を見届けてからどれほどたったか。また村を作る気もない。思えばあれらが妾の足掻きであったのか。わかっているつもりではあったが、見届けるばかりもつらいものよ。さあ、この先のことはわからぬ。妾のきまぐれとしてまた興るかもしれん。だがまあ、少なくとも今はそのつもりがない。
 ああすまんのう、妾ばかりが喋っておる。ここ数十年人と言葉を交わしておらなんだ。関わり方を忘れていたとしても驚くほどのことではあるまい。なに、よくあることじゃ。数十年に一度は人と関わりあうのがほとほと嫌になることもある。やりにくくても許せよ。おんしの急な訪問に妾とて戸惑っておるのじゃ。さて、おんしの用向きはなんぞあったかの。あとは好きに話せ。妾は話し疲れた。しばらくは貝の如く口をつぐもう。何を求められても。

 

 

 

 

 

 

 

愛した世界と逃避行  (100509)

by選択式御題